デモ初日、ディリ市内を歩く部隊(4月24日)(C)PeaceWindsJapan 退避の日、ディリ空港に配備されていたオーストラリア軍の装甲車(5月26日)(C)PeaceWindsJapan 日本国内で東ティモールの現状について報告する中島(6月5日) (C)PeaceWindsJapan 日本人スタッフの不在の間、バイクを安全なところに運び出す現地スタッフ(6月19日) (C)PeaceWindsJapan
東ティモール支援の現場から 2006騒乱を乗り越えて〜その1 国外退避 2006.12.27 報告:中島純 (PWJ東ティモール緊急支援スタッフ) バタバタバタバタバタバタバタバタバタ・・・
2006年9月中旬、PWJディリ事務所の傍に位置するヘリポートでは、オーストラリア軍のヘリコプターが轟音を響かせていました。東ティモールの治安悪化のため、国外退避してから3カ月半。わたしは再び東ティモールの地を踏みました。ふと、2003年に初めて東ティモールに来たときのことを思い出しました。当時は国連の平和維持軍が駐屯しており、連日ヘリコプターが行き交っていました。わたしがこの国に来て3年以上がたちましたが、またしても紛争が人びとの生活に暗い影を投げかけ、首都ディリの上空にはプロペラの轟音が鳴り響いていました。轟音とともに、東ティモールの発展はまた独立時の「ゼロ」地点に戻ってきてしまったのでしょうか。
わたしが国外退避したのは5月26日。前日25日、治安情勢の悪化から事務所を休業にし、午前中、在ディリ日本大使館で開催された緊急の安全対策会議に出席していました。会議中ディリ市内の治安情勢が急変したため、わたしは事務所に戻り、PWJの東京事務所やNGO関係者に連絡を取って、すぐさま市の中心部にある自宅に戻りました。門をくぐり、少し行ったところで、背後に銃声が聞こえました。まさか市街戦になるとは予想もしていませんでしたが、市街でのピストルやマシンガンによる激しい銃撃戦は、午後いっぱい続きました。そしてその夜半に、JICA(国際協力機構)が「国外退避」の決定をし、JICAとともにコーヒー事業を進めていたわたしも、JICAのチャーター機で国外退避することになりました。退避の朝、現地スタッフを危ない場所に残して「自分だけが逃げる」ような気持ちにさいなまれ、号泣しながら現地スタッフたちに電話を入れたことをよく覚えています。現地スタッフたちは「心配することはないよ、大丈夫だから」と、異口同音に励ましてくれました。
日本帰国後、わたしは奇妙な興奮と疲労のなかに置かれました。起きていても寝ていても、耳には銃声が鳴り響き、悪い夢も見続けました。日本から連日、現地スタッフに連絡し、現地スタッフたちの安否を確認し、安全確保を含む事務所の管理や事業運営の指示を出し続けました。通勤途中などに現地スタッフから、「事務所近辺が危ないです! 逃げてもいいですか?」「事務所の備品はどうしますか?」と、携帯電話に緊急連絡が入ることもしばしばでした。いつ東ティモールに戻れるかもわからず、したがって日本での住居も定まらず、わたしもまた「避難民」のような気持ちで、宙吊りにされたような気持ちで、日本から支援活動にあたっていました。
そんな日本での生活が4カ月ほど続くうち、現地は徐々に落ち着いてきました。とはいえ、ディリなどでは多くの住民が避難民となり、避難民キャンプなどで困難な生活を送っていました。PWJは現地で避難民の支援を開始しており、わたしも避難民支援チームとして現地に戻ることになりました。
(次回へ続く.....)
この事業では、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がディリ市内の避難民に配布したテントのうち、使わなくなったものを回収・洗浄・乾燥して東ティモール政府に渡します。9月の作業開始から10月23日までに、ディリ市内にある国内避難民キャンプ66カ所のうち、メティアウ、パンタイ・クラパ、カノサ・ハスララン学校裏、アタウロ島、国立競技場の5カ所のキャンプからから合計268張のテントを回収しました。
回収作業は、しかし、常に現場の状況を優先するため、スムーズには進みません。事前に依頼を受けてキャンプへ向かっても、「いったん帰還した避難民がまた帰ってきたのでテントが必要になった」と回収ができないことや、「しばらくテント生活が続きそうなので、汚れたテントと洗ったテントを交換してほしい」といった依頼を受けることもあります。また、ディリ市の北にあるアタウロ島からの回収時には、同島出身のPWJ現地スタッフ、アントニオ・ブランコ・ソアレスが出張し、地元の村長らと協力しながら、3村、計21張のテントを回収しましたが、ディリまで運ぶのに、ボートをチャーターして1週間もかかりました。
テントの洗浄のための施設は、空港局から使用許可を取り、国際空港の敷地内にあるUNHCRの倉庫の横に開設しました。水道も電気もない場所だったため、工事はまず井戸掘りからスタート。細いパイプを使って地下水のある場所を探し、発電機とポンプを使ってその水をくみ上げることにしました。作業のため、水タンク台、洗浄スタンドも設置しました。
騒乱から半年たった現在でも、ディリ市内では依然として帰還できない人たちが避難生活を送っています。また、連日、市内各所やいくつかのキャンプで、住民同士の衝突や投石事件などが発生しています。10月後半には雨期に入ることが予想され、雨水からテントを守るためにやむを得ずテントを危険な場所に移動して生活をする人たちも多くいます。避難民の人びとの不安は続いています。
2003年からPWJがレテフォホ郡で行っている支援事業は、コーヒーの品質向上をめざし展開してきました。今年4月からはなかでも、コーヒー生産者組合「カフェ・タタマイラウ」の自立に重点に置いて活動しています。事業開始からの3年間は第1フェーズとして「高品質のコーヒー生産」に専念し、組合のマネジメントが困難にならないようにするため、組合メンバーの数を制限してきました。今年は第2フェーズに入ったことで、メンバー数についてもメンバーたちの意思と決定を尊重するようにしたところ、メンバーが拡大し、生産量も大幅に増加にしました。
事業初年度の2003年当初の組合メンバーは、レテフォホのコミュニティ・リーダーと協議して選んだ3村10世帯だけ。そのオリジナルメンバーを通じて参加者が増加し、収穫期をはさんで35世帯となりました。2004年は収量増加を見込み、計画的に組合員を増やし、総計で6村135世帯に。2005年はPWJ現地スタッフをののしったメンバーと精製の重労働に嫌気が差したメンバー、PWJにコーヒーを販売しなかったメンバー、計5世帯について脱退処分を決定し、130世帯となりました。
2006年4月の「組合リーダー会議」で参加者たちは、これまで組合資金の貸付を受けられないなどの制限があった準メンバーを正規のメンバーとすることと、脱退処分を受けていた生産者の処分を撤回することを決定。この結果、2006年の組合メンバーは204世帯になりました。
今年の収穫は、混乱のなか、6月1日に始まりました。日本人スタッフが収穫現場にほとんど立ち会えないなか、生産者たちはPWJ現地スタッフや組合リーダーたちと協力しながら、熱心に作業を続け、9月15日に収穫作業を終えました。
収穫終了から1カ月。コーヒー・パーチメント(果肉を落として乾燥させたもの)はレテフォホにある倉庫で、ディリへ輸送を待っています。この後、脱穀・選別作業などを経て、治安の悪化などがなければ、11月中旬にも日本へ輸出できる見通しです。
※PWJの東ティモール・コーヒー農民支援事業は、JICA(国際協力機構)の協力を得て進めています。
避難民の配布するためのコメを積んだトラック4台とPWJの車両2台は、7月25日 午前、ラウテン県のトゥトゥアラ郡とイリオマール郡に向けて、首都ディリを出発しました。私(牛田)が加わったトゥトゥアラのチームは、真っ暗で木々が生い茂る狭い悪路にガタガタと揺さぶられながら、午後7時前、目的の村に到着。一方、イリオマール郡への配給チームは、途中の道でトラックのタイヤが何度もパンクしたために、日付が変わった翌26日の午前1時にやっと配給ポイントに到着。現地スタッフたちが疲労と闘いながらトラック3台に積まれたコメの袋数を正確に確認し、倉庫にコメを搬入しました。
2つの郡とも翌26日午前8時からコメの配給を開始しました。基本にしたのは、村・郡政府のデータに、村長や集落長からの聞き取り調査結果を加えて、PWJの現地スタッフがまとめた「国内避難民登録台帳」。身分証明書などで本人確認を行ったうえ、家族1人あたり8キロ(1カ月相当分)のコメを計って渡しました。イリオマール郡では、27日の夕方までに配給が完了し、トゥトゥアラ郡でも28日朝、配給を終了しました。配給量は、イリオマール郡では1044人に計8352キロ、トゥトゥアラ郡では565人に計4520キロでした。
受け取りに来た人たちの元の職業は、警察官、ドライバー、学生などさまざまで、退役軍人調査を行っていた大統領府職員もいました。「東部出身」であるために身の危険を感じ、無一文で必死に逃げてきたという印象を強く持ちました。「怖くてまだ帰れない」、「ディリに様子を見に帰ったことさえ一度もない」と避難民たち。ディリの治安は回復に向かっているものの、東部出身住民と西部出身住民の間の衝突や報復、商店街での投石、発砲事件などは完全になくなってはいません。避難している人たちは、ディリの状況や住んでいた地域についての情報を人づてに集めながら、ディリへの帰還のタイミングをうかがっているようでした。
一方、国内避難民を受け入れた村々も生活環境は十分ではなく、今年は農作物が不作であるところに、ディリからの国内避難民が大量に流入したために、村民の食生活が圧迫されています。東ティモール政府や国連機関は、避難民に加えて状況の厳しい村民にも食料支援を行う方向で調整を進めており、PWJも関係機関と連携を図りながら、現地の状況やニーズに合った支援を行っていきます。 ※PWJの東ティモール緊急支援活動は、ジャパン・プラットフォームの協力も得て進めています。
東ティモール支援の現場から PWJ東ティモール現地スタッフから 日本の皆さまへのメッセージ 2006.06.30 報告:ジュスティーノ・ダ・コスタ・ソアレス (PWJ東ティモール事務所 現地プロジェクト調整員) 親愛なる日本の友人のみなさまへ 東ティモールは…、再び崩壊してしまいました。もう言葉がありません。東ティモールの人びとの多くが、一部の権力者とその賛同者の私欲のために、苦しめられ、嘆き、抑圧を感じています。ピース ウィンズ・ジャパン 東ティモール事務所の現地スタッフも同じ境遇に立たされています。そして、私自身も他のスタッフと同様、困窮した生活を強いられています。今回の東ティモールの混乱により、私は、すべての財産を失っただけでなく、ディリ市内にあった自宅までも「東側出身者」というレッテルを貼られ、破壊されてしまいました。 私は東ティモールの東側の出身ですが、リキサ県やレテフォホ県を含む西側の人たちをいつも支援しようと懸命にやってきたからこそ、今回の混乱が東西対立の様相を呈してしまったことに深く心を痛めています。このたびの騒乱で1999年のときと同様、私は無一文になってしまいましたが、私より過酷な状況で生活を強いられている人びとが東ティモールにはたくさんいます。私たちは負けません。苦境から再び立ち上がります。 これまで、物資や資金面で、また激励や勇気づけの言葉を通して、東ティモールのために支援を提供し、励まし続けてくれた皆さまのためにも、私たちは再び立ち上がります。 東ティモールに対する皆さまの思いやり、そしてあたたかな支援には、本当に感謝しています。今後とも東ティモールが自立していけるよう、皆さまのお力をいただきたく存じます。
(対訳:牛田眞也子)
東ティモールの情勢は、 5 月20 日の独立記念日以降、急速に悪化しました。23日にディリ市のベコラ地区で、武器を持って逃走していた部隊と国軍が銃撃戦を繰り広げました。翌24日も状況は収まらず、25日にはディリの各地で銃撃戦が展開されました。
25日の朝、私はディリの日本大使館で開かれた安全対策会議に出席し、PWJディリ事務所で対応に追われている間に状況は一変。ディリ中心部の自宅に戻った直後、市街戦が始まりました。お昼に始まった銃撃戦は午後いっぱい続きました。前日の24日、東ティモール政府がオーストラリアなどに軍隊の派遣を要請しており、その日はオーストラリア軍の到着を今か今かと待っているなかでの状況悪化でした。このような状況のなか、事業のパートナーであるJICA(国際協力機構)が現地にいる関係者の国外への退避を決定。私は同僚の高澤洋子やJICA関係者、他の日本のNGOスタッフとともに、JICAのチャーター機で5月26 日夜、ディリからインドネシアの首都ジャカルタへ退避しました。3年余り駐在している東ティモールをこのような形で離れる日が来るとは、ほとんど予期していませんでした。
28日に日本に到着し、29日から状況の不安定なディリにとどまっている現地スタッフなどと電話で連絡を取り合っています。29日、30日は、事業地であるレテフォホにいる現地スタッフと連絡が取れない状況が続きましたが、31日午前、ディリの現地スタッフがようやくレテフォホのスタッフと話すことができました。
現在はPWJ東京事務所から電話を通じて、現地スタッフの安否を確認し、ディリの治安情勢の情報収集と分析をし、ディリ事務所の警備体制を整え、そして事業活動の調整をしています。オーストラリア軍を中心とした部隊が東ティモールに上陸を開始した5月25日以降も、治安状況はすぐには改善されず、ディリ市内は家屋が焼かれ、盗難が続き、住民同士の争いが続いています。30日、31日と状況は少し落ち着きをみせているようですが、まだ予断を許さない状況にあります。多くの現地スタッフが家族とともに、ディリ市内の空港などにできたキャンプや地方に避難しましたが、ディリ在住の一部のスタッフが動ける状態にあります。また事業地であるレテフォホの治安は問題なく、スタッフも活動を続けています。
東ティモールの治安情勢がきな臭くなってきた4月末以来、PWJ東ティモール事務所はコーヒー収穫期の計画の見直しを行ってきました。当初の予定では、2007年に本格的にスタートさせる予定だったコーヒー精製時の品質管理に伴う一連の作業を、今年から生産者組合主体で行うことにしました。危機を、発展のための機会と捉え、計画を前倒しにしたのです。収穫時には、17あるサブグループそれぞれのリーダーとサブリーダーが必ず作業に参加し、品質管理を行う計画です。現在、治安悪化の影響を受けて、他のコーヒー買付業者の集荷が滞っていることもあり、PWJの支援が一層大切な状況となっています。
6月1日に開始され、9月まで続くコーヒー収穫。このような危機的状況のなかでも、安全確保に十分、気を払いながら、昨年以上に品質の良いコーヒーを生産し、今年末にはコーヒー豆を無事、神戸に到着させることができるよう、最大限の努力をしていきたいと思っています。