東ティモールについて知る
東ティモールの歴史
| 16世紀 |
16世紀の大航海時代、ヨーロッパ列強は植民地獲得を競う。 白檀を産するティモール島ではオランダとポルトガルが覇権を争う。 |
| 1584年 | ポルトガルがティモール島を植民地とし、その後長く続くティモールの被支配の歴史が始まる。 |
| 18世紀 | オランダの勢力が拡大し、ポルトガルはオウケシ地区を除くティモール島の西半分をオランダに明け渡す。この時点でティモール島の東半分およびオウケシ地区はポルトガル領東ティモールに、西半分はオランダ領西ティモールとなる。 |
| 1942年 | 第二次大戦中、日本はオーストラリアに対抗してティモール島に侵攻する。東ティモールは中立国ポルトガルの植民地であったが、日本は敗戦まで3年半、東ティモールを占領する。 1945年までに4万人以上が日本軍の犠牲になったといわれる。 |
| 1945年 | 第二次大戦後、日本の統治の終結とともに東ティモールは再び、ポルトガル領に。 |
| 1949年 | 独立戦争の結果、インドネシアはオランダからの独立を果たし、れに伴い西ティモールはインドネシア領となる。 |
| 1974年 | ポルトガルでの政変でサラザール政権が倒れ、植民地主義も崩壊を始める。 東ティモール国内は、ポルトガル属領として自治を目指す親ポルトガル派、インドネシアへの統合を掲げる親インドネシア派、完全な東ティモールの独立を目指す独立派の三つの勢力に分かれ、抗争が激しくなる。 |
| 1975年 |
親ポルトガルのティモール民主同盟(UDT)がクーデターを起こすが、独立派のフレテリン(Fretilin)の反撃でUDTは西ティモールに撤退する。 フレテリンは東ティモール民主共和国の独立を宣言するが、インドネシアは親インドネシア派からの要請があったことを理由に軍事介入する。フレテリンは国連安保理にインドネシア軍撤退を求めるアピールを行うが反応はなかった。 インドネシア軍との戦闘が激化するなか、犠牲者多数発生。ラモス・ホルタ(現首相)は国外に逃れ、インドネシア軍の虐殺行為を世界に告発。フレテリン創設に参加した独立活動家、シャナナ・グスマン(現大統領)は国内にとどまり、「東ティモール民族解放戦線」(ファレンテル、Falintil)という武装抵抗組織をつくって、最高司令官に就任。 |
| 1976年 | インドネシアは国連決議を無視し、インドネシア27番目の州として東ティモールを併合。その後25年間支配下におく。 以降、日本はインドネシアとの友好関係を保つために、インドネシア軍が東ティモールから即時撤退するよう求める国連決議に反対票を投じ続ける。 インドネシアは東ティモールからの情報を遮断し、独立を求める人びとに暴力的な抑圧を続ける。東ティモールで行われていた暴虐や飢餓などに対して国際社会は長い間関心を払わなかった。 |
| 1991年 11月12日 |
ディリのサンタクルス墓地で、教会からデモ行進をしてきた東ティモール人が虐殺される(サンタクルス事件)。虐殺の様子を映したビデオが国外に流出し国際社会の関心を呼ぶ契機となる。 |
| 1996年 | 独立の活動家、ラモス・ホルタとカトリック司教で東ティモール人の精神的指導者カルロス・シメネス・ベロがノーベル平和賞を授与され、国際社会の関心が高まる。 |
| 1997年 | アジア通貨危機に直撃されたインドネシアで、社会不安が増大する |
| 1998年5月 | 32年間続いたインドネシアのスハルト政権は倒れ、副大統領だったハビビ氏が大統領に就任。国際社会の支援を必要とするハビビ大統領は、国際社会からの非難の的となっていた東ティモール政策の見直しを始める。 |
| 1999年5月 | 国連の仲介のもと、インドネシアとポルトガルの外相会議で、東ティモール暫定自治案が協議され、自治拡大の是非(実質的には独立の賛否)について東ティモール人の意思を問う「直接投票」の実施で合意。この会議に東ティモールの代表は出席していなかった。 投票を前に、インドネシア帰属派(民兵組織)は独立派の人びとに対し暴力をふるい、死者、難民、避難民が多数発生。国連は国連東ティモール派遣団(UNAMET)の設置を決定する。 |
| 1999年 8月30日 |
治安の悪さのために二度延期された住民投票が行われる。9月4日発表された結果では、最終投票率98.6%、そのうち78.5%の人がインドネシアによる自治拡大(併合)を拒絶し、独立を選んだ。UNAMET、東ティモールから撤退する。 |
| 1999年9月 | 投票の結果に反発した民兵によって、東ティモール全土で大規模な「焦土作戦」が開始された。9月20日にオーストラリア軍をはじめとする多国籍軍(INTERFET)が首都ディリに入るまでに東ティモールは焼き尽くされた。 INTERFETの介入とともに民兵はインドネシア領の西ティモールに敗走し始めたが、その時東ティモールから約25万人が西ティモールに強制的に連れ去られたといわれる。ピース ウィンズ・ジャパンをはじめ60以上の国際NGOが東ティモールに入り、焼かれた家や学校の修復など緊急支援を開始。 |
| 1999年10月 | 国連安保理が国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)の設立を決定する決議を採択。 |
| 1999年12月 | 東京で東ティモール支援国会議開催。 |
| 2000年1月 | UNTAETが、米ドルを暫定統治機構の公貨とすることに決定。 |
| 2001年8月 | 東ティモール初の普通選挙となる、憲法制定のための議会選挙。 |
| 2002年3月 | 日本政府が自衛隊員を国連PKOとして東ティモールへ派遣することを開始。PKO要員は道路敷設作業などに従事している。日本は1999年以来、東ティモールにとって最大の二国間援助供与国でもある。 |
| 2002年 3月22日 |
憲法を採択。 |
| 2002年 5月20日 |
東ティモールは正式に独立国として発足。独立の闘士、シャナナ・グスマンが初代大統領に就任。 |
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※原則として、PWJ支援開始当初までの歴史を中心にまとめています。 ※外務省ホームページ、「東ティモール独立史」(松野明久著、早稲田大学出版部)などを参考に作成。 |
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| (更新:2007.03.06) | |
- 外務省ホームページ 東ティモール: 基礎データなど
















