スタッフ・インタビュー
第5弾 松信章子(まつのぶ あきこ)さん
秋澄む10月の暮れ。
PWJの事務局では、小さな座談会が行われようとしていた。
部屋に入ってきた彼女は、いつもに比べて少し緊張しているようにも思えた。
第一声から「まな板の鯉のようね。」と上品に笑ってみせたが、 「何でも聞いてくれてかまわない」という、
自信に満ちたいつもの厳しく優しい眼差しがあった。
色んな企業にて華やかなキャリアを積み、50代半ばにして「国際協力」の分野に転身した。
その背景には何があるのだろうか。
今回は『ぼらんてぃあ広場』編集長をしている僕(大学4年生)と社会人ボランティアの女性と二人で、松信章子さんへのインタビューを行った。
―今回、松信さんにインタビューを依頼したのは、松信さん自身のキャリアの経歴と、
そのパワフルな仕事ぶりから、「国際協力」に関心のある社会人、とくに働く女性にとって何かしらの良い影響を与えられるものができると思ったんです。
『はい、ありがとうございます。』
―早速ですが、松信さんが大学を卒業されてからの経緯を簡単に教えてください。
『私が大学を卒業した当時は、女性への求人などほとんどなかったの。それに、私自身すぐに働きたいという意識もなかったのね。今にして思えば意識の低いことだけど。それこそ卒業控えた3月の頃まで。仕事がなければ、 まぁ家でぶらぶら遊んでようとさえ思っていたわ(笑)』
―本当ですか?信じられないですね。
『ないのですもの、本当に。もちろん、いくつかはあったけど、女子の場合は、何かの補助職だったりして、昇進なんてないものばかりよ。』
―それで、結局どうしたんですか?
『大学の神父さまの薦めがあって、外国特派員協会というところで秘書を探してたものだからそれを引き受けたのよ。他に何もすることなかったしね(笑)。1年間くらいやったのだけど、1日目で「これは、私に合わないわ」って思ったのね。』
―それはなぜですか?
『すぐに言いたくなるのよ。「私だったら、こうするのに」って口出しをね。けれど秘書の仕事って、意見を言うことよりも、言われたことをいかに能率よくやるかが大事だから。 でも、神父様の紹介だし、すぐに辞めるのは失礼だから1年は続けたわね。ちゃんと後輩の交代要員を見つけて、その人が代わりに来るまでは礼儀として。』
それから彼女は、叔父頼みで、親戚の学校(山手学院)にて教鞭をとることになる。担当は諸外国から来ている交換留学生。その人たちに日本語を教え、生活の面倒をみた。また日本人生徒に英語も教えた。
『でも教育って恐いのよね。その人の人生に責任をとらなきゃいけないような気がして。当時若かった私は、やりがいというよりも、教えることにたいして恐れをもっていたから3、4年しか勤めなかったの。』
それから、個人的にいろんな変遷があったと彼女は告げた。正直なところ、インタビュー アーとしては意外な展開であった。大学卒業後から、華やかにキャリアを積み、ヘッドハ ンティングを繰り返してきたのであろうと思っていたからだ。
『目的もしっかりないまま、何となく働きながら暮らしていたのだけど、ある時、このままじゃいけないと思ったの。やっぱり自分の力でしっかりと経済的自立をしていかなきゃいけないと思ったし。それで、いろいろと精神的にも疲れていたこともあり、気分転換を含めて留学をしようと思ったの。その頃、広告に興味を持ち始めたこともあった私は、友人の勧めで、広告やマーケティングの学科があるミシガンの大学に留学したのね。でも、2年かかる履修科目を1年ちょっとでクリアしちゃったから、現地で仕事を探したの。その頃、日本のレベルはまだまだ認知されていなかったから、職を得るのはすごく大変だった。履歴書を方々の企業にたくさん送ったわ。』
人生には、きっと転機となるターニング・ポイントがいくつか存在すると思う。若輩者の 自分が言うのもなんだけど・・。ただ、彼女にとって、その留学が一つのターニング・ポ イントだったのではないだろうか。
『それで、ちょうど、「電通N.Y.」が雇ってくれたの。そこに8年勤めたのよね、確か。そこではすごく面白い体験をさせてくれたわ。当時、日本の企業の世界進出が拍車をかけていた頃で、私もキャノンの小型事務機、主に、コピー機だったけれど、その商品のアメリカ市場参入のためのマーケティングや広告を代理店サイドで担当したの。おもしろいことに、日本の自動車産業がコンパクト・カーを武器にアメリカ市場に参入していたのと同じことが、事務機で起こりつつあったのね。つまり、米国の製造業は、小型のコピー機なんて考えてもいなかったし、まして、パーソナル、つまり個人や家庭用の需要があるなどと予想していなかった。その間隙を日本の製造業者がねらって、上手く新しい顧客層を開拓したわけ。事務機のTVコマーシャルなど、誰もしていない時に俳優を使って広告を作ったり、いろいろなイベントを企画したり。クライアントは日本の企業で、消費者はアメリカ人、そしてコピーライターやアートディレクターはアメリカ人だから、異文化がまざりあって、摩擦もあったけれど、面白い経験だった。意見調整ひとつとっても大変だったこともある。』
とは言いながらも、ようやく彼女の表情に、いつもの覇気が戻ってきた。それは、長い間、 自分の思うようなキャリアに巡り合えなかった彼女が、ようやく辿りついた納得のいく場 所だったからなのだろう。『自分でやらないと気がすまない性分』という生まれつきのキャ リア意識。「女性がバリバリ働く」機会が皆無に近かった当時の日本。アメリカだからこそ、 彼女自身の納得のいくキャリア人生は開花しえたのかもしれない。
『電通を辞めてからは、1年くらいフリーランスになって、NYで色んな仕事をしていたわね。けれど、40近くになって親のことも気になっていたから一度、日本に戻ろうと思ったの。それから「アメリカン・エクスプレス」というカード会社にはいって、いろいろと新サービスやヒット商品を生み出したのだけど、ここもすごく楽しかったわね。この時は日本もまだ景気が良くて、本格的なカード社会を迎えようとしていた時でもあったから。』
それから早期退職制度を利用して、あっさり会社を去ると、1年間は親の介護などのために サバティカルをとったという。よく日本人は「live to work」(働くことが人生そのもの) と言われているが、やはりアメリカに長い間いた経験だろうか「work to live」(人生あって の仕事)を彼女は実践している。もっともそれが、意識的なものか無意識的なものかは分 からないが。
『それから「フェデックス」という航空貨物運輸の会社からヘッドハンティングされて、 北太平洋地区のマーケティング担当の取締役を任されたの。マネージング・ディレクターって私は英語のまま言っていたけれど。そこでは、韓国と日本を担当したのだけど、アジア本社は香港だったし、ミーティングはアジアの各地で行われたし、おかげさまで、アジアのことをずいぶん、知ることができ、いろいろと面白い経験をたくさんしました。仕事を通じて、アメリカ、アジア、そして日本のことを知ることができて本当にラッキーなことだと思うわ。』
一つの転機を堺に、人の人生というのは、こうも変わるのか。そう思わずにはいられない キャリアの変遷である。そして、今回のインタビューを通して、もっとも印象的な言葉を 彼女は発した。
『でもね、人って55になると色々と考えるのよ。』
その言葉は、恵まれたキャリア生活を自分でも認めるようになってから、生まれたという。
『20代後半からずっと、「自分の力で、生活基盤をつくっていく」ことが自分にとっての ファースト・プライオリティだったわけよね。でも夢中で働きながら、いろんな会社で、いろんな面白いことさせてもらったと思うし、地位も報酬もすごく恵まれていたと思うわね。でもね、人って55になると色々と考えるのよ。』
定年までキャリア・ウーマンとしての華やかな人生でもよかったかもしれない。けれど、 もともと「社会を変える力」になりたいと言う彼女は、再び大きなターニング・ポイント を迎えることになる。その55という年に、彼女なりに思うところがあったのだろう。
『定年になってから、何か新しいことを始めるというのも一つの選択肢としてあったわよ。 でもね、それは新しく移る相手先に対して何となく失礼にあたると思ったのよ。まだ知力・体力しっかりとした50代なら、それは私のコミットメントとして受け入れられると思ったのよね。それに、55で何か新しいことを始めたら、10年くらいあるわけだから、その位あれば、何かできるのではないかと思ったわけ。』
―そこで、いよいよ「国際協力」分野に転身するわけですね?
『そうね。もともと私は、社会を変えたいと思ってきた人なの。とくに、女性の力を十分に発揮できる社会にしたいと思って、フェデックス時代から、頼まれれば講演をしたり、サイトで情報を発信したり、若い女性のエンパワーメントを目指して私なりに努力してきてはいたのだけど。』
インタビューの始めで、確かに「当時の女子学生には、就職なんてほとんどなかった。」と いう現実を見てきただけに、その思いが強いのだろう。実際、彼女はボランティアで「女 子教育奨励会」という団体において、「女性のキャリア支援活動」を行っている。 「女子教育奨励会」HP⇒http://www.jksk.jp/j/matsunobu/index.htm
『私には子どもがいないから、若い人たちの力になりたかったのよね。私が努力することで、その力になりたかったの。まぁ、間接的にはお役にたてたことはあるかもしれないけれど、もっと直接的にコミットしたかったのね。それと、国際協力の分野にも興味が前々からあったの。後から、「ああ、しておけばよかった」と悔やむようなことだけはしたくなかったし。』
―なるほど。それで、ピース ウィンズ・ジャパンを選んだ理由は?
『もうね、タイミングよ(笑)。私が、たまたまそんな風に思っていた頃、たまたま個人的に会ったことがあった大西さんのピース ウィンズ・ジャパンが、たまたまマーケティング部の人材を募集していたということ。大西さんと話して、なかなか近頃の若い人は面白いことを考えていると思っていたし。人生ってね、人との出会いとか、タイミングなのよね。10年若かったら、たぶんこの道を選んでなかったと思うし。』
人生は、「人との出会い」と「タイミング」。その言葉には、重みがあった。そして、彼女 の今までの話をきけば、それは実感をともなう重みだった。
―ビジネスの世界のかなりコアなところにいたと思うのですが、NGOという世界にきてみて、何か違和感というものはありましたか?
『まぁ、企業とNGOというのは営利か非営利かだけの違いであって、仕事内容はマーケティングという意味では、あまり変わらなかったから、そんなに違和感はなかった。でもNGOには支援者が顧客であるという意識はあまりないのではないかしら。企業なら、顧客満足ということをイヤというほど叩き込まれるけれど。そこら辺の意識はNGOではもうひとつかな。それと、ピース ウィンズだけに限った話じゃないけどNGOでは時間の感覚もアバウトだわね。だから、もう時間の管理を厳しく言っていますけれどね(笑)。』
―そうですか。逆に、企業の世界にはないNGOの面白さっていうのは?
『やはり、若い人たちが大きな仕事を任せてもらえるのは魅力的なことじゃないかしら。そこらへんは企業にはあまりないわ。個人がやろうと思えば、その分いくらでもチャンスがあるわね。』

―そうですね。ただ、個人的に僕が思うのは、そうやって若い人たちがやりたいとう思いはあっても、なかなか企業みたいに人材教育の制度が、NGOの世界には少ない気がしますが。
『そのとおりだと思うわね。それに、やはり、給料の高いところにはいい人材が集まりますからね。志も大事だけど、ちゃんとプロフェッショナルに仕事をしているなら、報酬の面もしっかり遇すべきだと思う。けれど、まだ、今は社会の認識がそのレベルに来ていない。だから、志のある人はNGOに集まるけれど、営利と非営利のセクター間で労働流通性がない。ビジネスの世界と非営利の世界って、距離感がある気がしない?そこに人材の流動性が生まれたら、日本は全体としてもっと視野が広くなる気がするわ。けれど、それを傍から叫んでも説得力なんてないし、まずは自分からっていう思いもあったわね。』
「数々の大企業で培ったビジネスセンスを、NGOに転身して活かす」というスタイル。そ れは、いずれ多くの女性にとっての、モデルケースとなる日がきっとくるだろう。彼女の 場合、目先だけのものごとに捉われず、本当に先の先を見ているように思えた。
『どんなに志があっても、志だけでは食べていけない。家庭をもって、子供を育て、生活していかなければならないので、長く働きやすい環境を作りたいと思います。長く続かないと人材も育成されない。企業からNGOの世界に来る人は今はまだ少ない。もっとNGOのスタッフのプロフェッショナル性を磨いて、社会全体に「NGOはプロなんだ、プロにちゃんとしたの報酬を払うのは当然だ」という意識をつくっていきたいわね。』
―私は今社会人をやっていて、NGOの社会に入りたいと思うことはあるけど、やはりペイの面を考えると、バリバリ働くのは難しいですね(笑)。ただ、私のもっている何かを、ボランティアとして還元したい気持ちが強いんですけどね。ただ、なかなか社会人の参加は時間的に難しいですね。
『土日のイベントでは、ボランティアの人にほんと感謝しているわ。必ずしもスタッフが参加できないなかで、ボランティアさんの力って偉大なものがあるわよね。』
―やはり、企業に勤めている人とNGOの世界の人が一緒になって、お互いのよい部分を出して頑張っていきたいですね。その意味では、社会人の方がNGOの世界に参加することって、ぜったい必要だと思うんですよ。
『おっしゃるとおりですね。』
―話しは変わりますが、松信さんには、メンターという存在はいたんですか?
『いましたよ。いつもいたというわけではないけれど。叱ってくれたり、時には励ましてくれたり。自分とは違う視点で、ものごとを言ってくれるからね。やっぱりメンターは大切ね。メンターって自分で求めなきゃだめよ。助言を求めたいと思う人がいれば、その人はそれなりの人物なわけじゃない。人って頼まれたら悪い気持ちはしないわよ。ですから、若い方には積極的にメンターを求めることをお勧めします。』
どんな質問に対しても、彼女は自分の心の奥にしまってある価値観を掘り下げるように、丁寧に応えてくれた。非常に残念なことに、60分のテープに収まりきれないくらい、インタビュー(というか座談会)はずっと続いた。
―これからの目標はありますか?
『そりゃ、一にも二にも支援者を増やすことよ。』
感受性豊かな面もあれば、目標をしっかりと現実的に把握しているのも彼女らしさである。松信さんには、仕事で忙しいなか予定の20分を大幅に超えて、長い時間をとってくれたことに心から感謝をしたい。そういうところに、彼女のいう「若い人の役に立ちたい」という心遣いが生きていると思う。彼女のパワフルさは、なかなか文面では伝えきれないところもある。だが、彼女の価値観に少し近づけたのではないだろうか。別に、ボランティアするしないに限らず、ピース ウィンズに立ち寄る機会があれば、ぜひ彼女に会ってみて欲しい。少なくとも、僕は彼女といると、なにか「喝を入れられている」ような不思議な引き締まり感を覚える。自分も負けずに、気合いを入れなきゃって。彼女の活躍が、ピース ウィンズ、しいてはNGO、国際協力の分野にも新しい風を吹き込 んでくれるのではないだろうか。枯葉を吹き散らす、秋の風のごとく。
(2003.10.31) |